「国際看護師の日」の出会い

5月12日は国際看護師の日であった。。
ナイチンゲールの誕生日である。

日本では12日を含む先週の1週間を「看護週間」とし、全国の病院などで看護体験などの行事が行われる。例年ならば。

僕も、1998年のこの日、東京の西の方にある某国立病院(災害医療センター)で「看護体験」に参加した。
当時の僕は、某中堅予備校で看護医療系のコースを担当しており、前年度の教え子である日本人一番弟子、ナース・ハカマダが通う付属看護学校の隣にあるこの病院を選んだのだった。

ま、看護体験の思い出はさておき、彼女を指導したことがその後の僕の生き方を大きく変えたことは事実。彼女が看護師になりたいと言い出さなければ、僕の受験指導のキャリアの中に医療系受験の経験は加わることはなく、母校でもある某中堅予備校の現役高校生コースに医療系コースがラインナップされることもなく、その年の8月末に、うちのNPOの前身の組合の、当時の理事長Bさん(故人)に出会うこともなかった。ということは、僕が旧「ベトナム人看護師養成支援事業」に出会うことも、今のNPOの専務理事N氏に会うこともなかったし、50名以上のベトナム人看護師の誕生に立ち会うことも、今、ダナンで看護学生に日本語を教えている現実も、なかったことになる。

と言うか、ダナンプロジェクトを推進する岐阜の社福法人のみなさんと出会うことも、NPOの若手軍団「爆笑ネットワークス」に参画することもなかったし、「ベト看」がどうなっていたか?その後のEPAにつながっていったか?当然、いつもの日本料理Kのみんなに出会うこともなかった、、、っちゅう話になるわけだ。


と、なんで看護の日と一番弟子ナース・ハカマダにこだわるのかというと、今年の「国際看護師の日」の教室でも、あらたな出会いがあったのだ。

実は前日の11日、夕方17時から始まる現役看護学生のクラスのある学生が、授業直前に息せき切って、しかも満面に笑みを浮かべて教室に飛び込んできたのだ。

日本の看護学生も同じだが、そもそも看護学生には時間がない。授業(講義)と実習の両方を平常心でこなすことは、とても難しい。しかも、毎日夕方2時間の日本語の授業である。自ら希望したとはいえ、「こんなつもりじゃなかった」学生も多いはず。

それでも、日本語の授業に遅れないように、実習病院から必死で走ったり、自転車やバイクを飛ばしたりして帰ってくるのだ。

そんな学生のひとりが、授業前の挨拶をしようとした瞬間に、教室に飛び込んできたのだ。
そして

「先生!病院で日本人の女の人と日本語で話しました!」
「はあ?患者さん?」
「違います。看護師です!」

よくよく聞いてみると、ダナン病院にボランティアで来ている日本人看護師の方がいらっしゃる
とのこと。恐らくJICA関係かな?と思ったけど、とりあえず学生の本当に嬉しそうな顔に癒された。

「先生、彼女は教室に来たいと言っています。いいですか?」

別に、断る理由はないし、日本の看護師の話を聞くことができれば、学生たちには一石二鳥にも何鳥にもなる。と思って、とりあえず学生に名刺を託した。

すると翌日、つまり12日の「国際看護師の日」の17時、早速学生が彼女を連れてきたのである(笑)おや、まあ(笑)

例によって、前半戦は通常の授業を見学してもらう。前日の試験の返却と解説。休み時間を挟んで、予定していたナイチンゲールと日本の看護週間について。僕の看護体験の話なども交えつつ、日越EPAの「人の移動」(看護・介護)についての交渉が近々東京で行われることなども話した。

ベトナムの看護を語るとき、ナイチンゲールの存在はあまり大きくはない。看護師養成に「戴帽式」もなければ、「ナイチンゲール宣詞」の唱和もない。(昨今の日本の養成校も同じですね)キャンパス内にヒポクラテスや、ベトナムの医療の先達の像はあるが、日本の看護師養成校ならどこにでもある「ナイチンゲール像」は存在しない。歯科助手の実習室前に、大きな「歯」のレプリカは置いてあるのだが(笑)

ナイチンゲールよりも、むしろバック・ホー(ホー伯父さん=ホーチミンさん)の医療従事者に対するお言葉の方が重要視されているのは、やむを得ないのかもしれない。

ホーおじさんのお言葉にちなむ、2月27日の「ベトナム医療従事者の日」には校門に横断幕も掲げられていたのだけど、

この日は何もなし。それでも学内では、「なんちゃらの日」恒例のカラオケ大会が行われていた模様(笑)

さて、授業。残り時間を使って看護師のAさんの登場である。

午前中のチームDと違い、このクラスはお客様慣れしていない。なかなかスムーズな会話とは行かないのだけど、病院実習で面識がある学生が多く、徐々に打ち解けていく感じ(笑)何よりも、好奇心旺盛なのがよい。



彼女から発せられる「救急救命」「精神科」「リハビリ」などの言葉を黒板に書き出す。早速辞書を引き出す学生もいる。
医療用語や介護に関係する言葉の学習はまだこれからだが、少しずつ慣れていって貰いたい。

あっという間に終了の19時になってしまった。明日、また病院で会う予定の学生もいるようだ。
学生たちにとって、身近に日本人の看護師がいることは、心強いことだろう。

授業後、挨拶もかねていつもの日本料理Kで食事をした。と言うか、飲んだ。
僕が着替えている間、名残惜しそうに教室前で彼女と話していたのだが、病院へ実習に出かけたり、寮の部屋へ戻っていった。

南国の県立看護大学を卒業後、東京の病院で勤務されていたとのこと。ぜひ海外に出たいと以前から思っていらして、5年の勤務経験を経てJICAの医療派遣チームに応募したのだとか。

以前、ベトナム人一番弟子フーンと一緒に夜汽車に揺られ、ゲアン省クインリュー郡の病院へ同じくJICAの派遣で赴任されていた、日本人助産師Tさんを訪ねたことを思い出した。

と、ここまではよくある話。
ここからが、運命的な出会いなのである(笑)

ひょんなことから、東京での勤務先の話になり、な、なんと、彼女が勤務していたのは僕が看護体験をした病院、日本人一番弟子のナース・ハカマダの母校、某国立病院災害医療センターだったのだ!しかも、僕の東京の自宅近くの精神科系の病院や、介護施設でもお仕事された経験があるとのこと。

「うわっ!Sの森!」と、お互いにびっくりの偶然だったのだ(笑)

運命的な偶然は、これだけではなかった。

ナース・ハカマダと出会わなければ、僕が看護医療系の受験や、ベトナム人の看護師養成に関わることもなかったわけで、そんな昔話をかいつまんで話しつつ、(旧)ベトナム人看護師支援事業(以下、ベト看)に関わった経緯などをお話しすると、、、

な、なんと、ハノイのJICA事務所にいる医療チーム担当者は、旧ベト看のメンバーだったのだ!
ベト看3期生。10名来日して、10名合格した年の学生の1人である。1999年の話である。
その中のひとりHさんが、彼女にベトナムの医療事情、看護事情などをレクチャーしたというのだ。

ベト看3期生と言えば、僕が最初に東京・代々木のオリンピックセンターでの受験合宿に参加し、勤めていた某中堅予備校での授業にもベトナム人受験生を参加させた年である。医療系受験が難しくなっていた時期で、それでも日本人ベトナム人合わせて25名近い受験生全員合格。
ある意味、予備校講師としての絶頂期であった。多くの仲間の先生方、ナース・ハカマダを初め、教え子たちの協力にも恵まれた。

今の僕の授業スタイルの原点が、あの頃にあるのだ。

ベト看の初期の目的は、人材の養成とともに、看護技術や知識の移動・移転でもあった。
ハノイでの事前指導15か月+看護師養成校留学3年+病院での就労研修4年。
当初、滞在VISAに2年という制約が合ったことからの期限設定であったが、就労期間が7年になり、昨年11月にようやく7年縛りが撤廃になった。徐々に就労研修後の制約が少なくなり、日本国内で結婚、出産と人生のステップを進むベトナム人看護師が多くなった。ベトナムに戻って、看護教育の道に進むケースは、その進路選択、生き方の選択の多様性とともに、皆無だった。つまり、ベトナムに戻ってベトナムの医療の発展に寄与すると言う役割は、小さくなっていたのだった。

それが最近なって、徐々に替わってきた。
ベトナム国内で、外資系や日系の病院、クリニックが増えてきて、そこで看護師として活躍するベト看OGもいる。
ハノイの看護学校で、教壇に立っている人もいる。
JICAの事務所で、日本からの医療派遣チームを受け入れるスタッフになっている人もいる。

十数年経って、やっとあの頃の「僕たちが目指していた、ベトナムの医療に貢献する人材を育てる」ことが徐々に実現しているのだ。
これは、本当に嬉しいことである。


話が大きくなった。「Sの森」の話に戻そう。某災害医療センターは旧国立O病院とT病院がその前身である。
実は、高校時代に僕を可愛がってくれたS先生(故人)の奥様が、旧T病院の総婦長だったりもする。ナース・ハカマダ曰く「伝説の総婦長」だそうな。

ベト看のこと、EPAのこと、ダナンの病院のこと、実習中の学生たちのこと、Sの森のこと、介護現場について、戴帽式(と言うかナースキャップ)復活待望論(笑)などなど、話は尽きなかった。

学生たちにとって、日本語を直接教えているのは僕ひとりだけど、彼女やダナンのリハビリ病院に派遣されているという、理学療法士の方とも何れ接点があるだろう。そして、彼女たちと接する中で、学生たちが「自分の日本語」を使って、日本の看護や医療を感じ、取捨選択して「ベトナムの看護」を充実させていって欲しい。

しかし、学生たちが日本語を学んでいる初期の目的は、「日本の介護を学ぶ」ためである。もう数週間で、9月から介護を教えてくれる講師のO先生が事前視察にやってくる。

彼女と話していて、ベトナムの看護の「介護的要素」の脆弱性に対する認識は同じだった。
学生たちが介護を学ぶことで、ベトナムの看護は確実に向上する。

日越EPA交渉がどうなるか、学生たちが日本で中・長期的に働くことができるかは未知数だが、「ベトナム初の介護教育」の成果は限りなく大きい。
業界初の「海外での介護士養成講師」であるO先生の双肩に掛かる期待は、限りなく大きいのである。

今週末には、看護師のAさんと再会、理学療法士の方とも合流の予定である。
O先生!ダナンの医療・福祉系の仲間と一緒に、そして31名の学生たち=DAN31のメンバー(&日本料理Kのみんな(笑))と一緒に、待ってますよ!


いろいろなことを思い出した。夢中で走っていたあの頃の経験は、たしかに小さな経験だったかもしれない。しかし、仲間たちや教え子たちと一緒に、初体験の興奮の中で体験した「外国人医療系養成校受験指導」が大きな連携を生み、新たな出会いにもつながっていた。そして次につながっていく。

ダナンの介護プロジェクトは、まもなく「介護教育の前提となる日本語」の指導を終え、本格的に介護教育の準備に入る。

しかし、その成果は、学生たちが日本の介護を学び、日本での経験を活かして、母校に戻りベトナム人看護師、介護士の養成を始めたときに、初めて世に現れるだろうと思う。


あらためて大切なことを思いだし、気づかせてくれた、「国際看護師の日」だった。

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