最終回は大晦日《副題:3年間、ありがとう》

最終回に、ようやく実際の日付とブログの内容が一致した。
本日は1月30日(木)旧暦では大晦日である。明日は新年。

Chúc mừng năm mới.

ベトナムの皆様、新年おめでとうございます。

おっと、喪中だった(笑)

さて、明日は東京都立看護専門学校の一般入試の2次試験。面接試験の日である。
ここ数日、面接対策の授業やら、模擬面接やらで、けっこう忙しかったのだが、これで一段落。来週からは中3生の高校受験ラストスパートのみなので、楽なんだけど

僕は授業やってる方が気分良いので、少しの間寂しい時期となる。

看護受験の指導は、ひとりひとりの人生と向き合うことになる。時には深い事情を知ることとなり、戸惑うこともあるけれども、共に悩み、考えることで人生の岐路を通過していく支えとなったり、きっかけとなることができるのは、僕は楽しいし、嬉しいことも多い。

あとは、受験生ひとり一人が、自分の生きていく道に確実に進んで行ってくれることを願うばかりである。

ダナンから帰ってきて、9月からの学年途中に横入りした、古巣の予備校に戻ってきて、良かったと心から思う。


この時期、以前はベトナム人看護師養成支援事業(通称ベト看)の学生たちの看護学校受験と、予備校の授業と、高校の非常勤の授業が入り乱れて、もう大騒ぎの時期だった。
東京・代々木のオリンピック記念青少年センター(通称オリセン)での合宿勉強会が、一年の締めくくりとなる一大イベントだった。

ベト看の一定の成功が、インドネシア・フィリピンのEPAの流れを作り、ダナンのベトナム人医療福祉人材育成プロジェクトの動きが、ベトナムEPAを加速させたのは紛れもない事実。その二つの事業に、主体的に関わることができたことは、心から誇りに思うし、一生忘れ得ぬ思い出である。

全てのことが初体験の手探り状態ではあったけれど、夢中で走ってきた結果がもうすぐ結実する。ベトナムEPAの第1バッジも、もうすぐ日本へやって来る。もちろん、ダナンで教えた1期生、2期生もその中に入っている。

彼ら、彼女らが、きっとインドネシア・フィリピンとはまた違った結果を出してくれると思うし、またそうなってくれないとね(笑)


東京・高円寺にある母校の予備校(3年浪人し、学部1年の12月から教壇に立った予備校)で、17年前、たったひとりの女子高生と、親友の数学の先生と、たった3人で作った看護受験コースが全ての発端だった。彼女はもう35歳になっている。

その看護系受験コースが軌道に乗ってきた年に出会ったのが、ベトナム人看護師養成支援事業であった。

もし、彼女と出会っていなかったら、僕はベトナムとは出会っていなかった。
手前味噌ではあるが、もし彼女に出会っていなかったら、ベト看はどうなっていただろう。
外国人看護師がどうなっていたか、EPAでの看護師・介護士は誕生していただろうか。

そう考えてみると、ずいぶんと壮大な夢を追っかけてきたのかもしれない。

介護が必要な高齢者である父親を施設に託して、異国で介護の心を教えると言う、何とも矛盾した3年間ではあった。父は常々「息子の邪魔をしたくない」「僕の息子は、今、ベトナムでとても大切な仕事をしているんです」と語っていたらしい。その父の言葉に甘えてしまったが、看取ることができたことは、良かったと思う。


ダナンでの3年間、ここまでの経験と多少の知識を駆使して、工夫しながらの悪戦苦闘ではあったけれど、熱心な学生たちに囲まれて、幸せでした。

まだやり残したこと、心残りなこともありますが、人生の中でひとつの目標としていた、大学の教壇に立つこともできたので、これにて僕のダナン日本語教師生活、完結といたします。


大切な新規事業の黎明期を3年も託してくださった、社会福祉法人千寿会の皆様。
ベトナムへの道を付けてくださった、公私ともにご支援頂いた、NPO法人AHPネットワークスの皆様。
たったひとりの外国人専任教師を支援してくださった、ダナン医薬技術大学の皆様。
日本語教育を実践する上で、様々な示唆をくださった、先輩日本語教師の皆様。
ダナンの先任駐在員の皆様。

日本食レストラン「北国」&EENAホテルの皆様。

お世話になったみなさま、心より感謝申し上げます。


3年間、のべ100人近い、ダナン医薬技術大学日本語−介護クラスの学生たち。ベトナム介護の先駆者として、自信を持って前に進んでください。
あなたたちひとり一人の努力に、心から敬意を表します。

このブログは、この記事をもって最終更新といたします。
明日からは板を換えて、「努君的徒然草2014」として再出発します。
http://shibasen.hatenablog.com/

最後に、3年間も待っていてくれた愛しき人へ
「ただ今」「ありがとう」

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介護って、なんなのさ?(笑)

前回の記事で、自身の結婚をにおわせたところ、「プロポーズの言葉がない!」と、各方面からご指摘をいただいた。

ええ、書きませんでしたが、言葉は発しております(笑)

それに、9月に帰国した際にも、会ってすぐに、その言葉を連発したと、本人ははっきりとは覚えていませんが、もう一方の当事者が申し述べております(笑)

さて、今度こそ本当に最終章なのですが、最後の最後に書いておきたいことがあります。

「介護」に相当する言葉がなく、似て非なるホーリーと呼ばれる職業があり、むしろ看護師よりも専門職として頑張っているんじゃないか、、、、、とも思える、そんなベトナムで、僕は3年間、「日本語で介護を学ぼうとする看護学生」に、日本語を教えてきた。

僕の姿勢は、相手(学生)が、高校生だろうが大学生だろうが、社会人だろうが、准看護師だろうが、日本人だろうがベトナム人だろうが、変わらない。目指す学校に合格することだけではなく、その仕事に就く心を育てたいと考えている。

この3年間、ダナンの教室で、「病院は病気や怪我を治して、家へ帰ってもらうところ。介護の施設は、幸せに死んでもらうところだよ」と教えてきた。

もちろん、病院で亡くなるケースも少なくはないし、介護の施設にはそれぞれ役割分担があり、語弊があることは百も承知ですが、ざっくり言うとそういうことだと思う。

さて、3年間のダナン生活の中で、後半の2年弱の間の身の上話しでの大事件は、父親の入院、施設(介護付き有料老人ホーム)への入居であった。そう、介護が必要な高齢者をひとり残して、異国で介護の心を教えるという、何とも矛盾した行動をしていたのである。

その代わりと言ってはなんだが、施設での親父の様子は逐一伝えてもらっていたし、時々送られてくる写真やエピソードは、「教材」として活用させてもらった。一時帰国の際に銀行に親父を連れていった時に利用した「リフト付き介護タクシー」の写真を見た学生は、「こんな車、ベトナムにはありません!」「これは便利です!」と大興奮だった。

もっとも、介護タクシーの前に救急車をなんとかしたいですけどね、ベトナム。

さて、大晦日の話に遡る。

12月に入って体力が急激に落ち、そろそろ覚悟が必要かと、そんな状態であったのだが、ドクターの判断で胃瘻を作ることで体力の回復を図ることになった。何とか年は越せるかな、、、という状態で迎えた大晦日だったのだが。

僕がベトナムにいた3年の間に、以前から予備校講師仲間で集っていたお店がなくなってしまった。その後、大晦日にはみんな集まって年を越すのが恒例になっているのだけど、今回、僕は初参加と言うことで、楽しみにしていたのだ。

ところが、宴たけなわの22時ぐらいに施設から連絡が入り、、、、、12時間ぐらい頑張ったのだが、元旦に亡くなった。苦しまずに逝ってくれたのは幸いだったのだけど、ひとつ残念な事があった。

夜が明けてからだったから、7時ぐらいだろうか。実は僕はある決断をしなければならなかった。家庭の事情で我が家は、父方の親戚と一切のお付き合いを絶ってきた。その事情は、僕にはわからない。

昨秋、偶然facebookでつながった従姉とは、35年ぶりぐらいで連絡を取り合うようになっていたが、彼女のご両親、つまり僕にとっては叔父、叔母に連絡するべきか否か、この決断は苦しかった。結果的に来て頂き、看取ってもらえたのだが、それが良かったのかどうかはわからない。そのことは横に置いて、、、


徐々に心拍数が下がり、血圧も下がっていく中で、看護師さんの適切な処置には感心した。僕はきちんとした知識を持っているわけではないが、それでもバイタルサインの数字から的確に状態を把握し、適切に処置していく様子がわかる。そして、僕に状況を説明してくれるのだった。

「バイタルって、こんなに如実に知らせてくれるんですね」と、この期に及んでも「教材にできるな」と、そんなことをぼんやり考えていた。

その時である。聞こえちゃったんだな。

「陣内さん、ダメなの?」

百歩譲って、業務としての、お仕事としての確認で、必要な発言だったとしよう。
それならば、せめて、家族に聞こえないようにお仕事してくださいよ。

入居の際に、確かに「看取る」という方向の介護を行うことを承知し、サインした。だったら、心静かに逝かせてやってくださいよ。

正直、「なんだ?この野郎!」と思ったが、発言した人間を特定するのはやめておいた。
謝らせることは簡単だっただろうけど、あまりに虚しいと感じたから。

父が逝ったのは、間もなくだった。

施設のみなさまには、心から感謝している。そのことは今も変わりはない。
しかし、そのような発言を、何の遠慮もなく発するような輩は、業界から出て行ってもらいたい。これだけは看過できませんな。

後になって、親父の荷物を片付けに行ったときに、事務の方にそっと伝えておいた。

介護に関わる人は、優しい人が多い。それは、この施設だけではなく、僕をダナンへ派遣してくれていた法人のスタッフと接しても同じである。

しかし、技術はともかく、心の方はいかがなもんだろうか。
心配りがなければ、せっかくの「優しい心」も一瞬で吹き飛んでしまう。

看護師の方の心配りに感心した直後だっただけに、何とも言えない後味の悪さが残る。

ようするに、何が言いたいかというと、、、、

その人間が、もし僕の教え子だったら、ぶん殴ってる!

ということです。

施設の方にも、同じ事を伝えました。もちろん、冷静に、静かな声でね。

と言うわけで、気分良く終わりたいので、
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ありがとう (11月10日夜の話)

11月10日(日)の夜。

この日の朝、東京・八王子の自宅に戻った僕は、夕方から、ある焼き鳥屋へ向かった。最近、何も予定がない日曜日は、ここである人と時間を共にしている。

考えてみれば、3年前にダナンへ出発したときも、朝まで共に過ごし、この言い方は語弊があるな(笑)共に飲み、八王子駅で見送ってくれたのも彼女だし、何度かの一時帰国の際も、帰ってきて最初に会うのも、離日前夜に飲むのも、いつも彼女だった。

出会ってから、もう何年だ?6年?7年?

「歳をとっても飲み仲間でいよう」とは言っていたけれど、それ以上のことは何もなかった。でも、2010年8月27日の朝、八王子駅での、彼女の突然の言葉は嬉しかった。

ベトナムへの赴任は何の抵抗もなかったけど、初めてのダナン、初めての「日本人の同僚なし」はじめての「0初級スタートの日本語教育」、インドネシア・フィリピンのEPAの、必ずしも成功とは言えない現状を踏まえて、「ベトナムは絶対に失敗できない」というプレシャー

いつになく動揺していたのであろう僕に、「独り身で待っていればいいの?」と彼女は呟いたのだった。

その時の僕は、「いや、そんな失礼なことは言えないよ」と応えたのだが、本当は、ね(笑)

契約は1年だけど、1年で帰ってくる気はさらさらなかったわけだし。

そもそも、ダナンの北国のトンちゃんに最初に会った時も、まあ、髪型と顔の輪郭だけだけど、「あれ、(彼女に)似てる」と思ったわけであり(笑)

さて、話を焼き鳥屋に戻そう。

1週間前、僕たちは同じ場所で、日本シリーズの最終戦を見ていた。
大阪近鉄が消滅して以来、「何を今更、阪急?オリックス?そんなチーム応援できるか!」とバファローズを自分の中では封印し、ひたすら、弱かった頃の近鉄の思い出と被せながら、楽天イーグルスを応援してきた。

だから、東北の震災云々ではなく、「近鉄が読売に勝って日本一になる」という、今となっては絶対に果たせない夢を、楽天にかけていたのだ。

だからこその、日本一の瞬間の落涙であったのだが、、、、、この人は「泣くようなこと?」と、不思議そうに笑ったのだ。ったく「今回は、勝って欲しいね」と言っていたくせに(笑)

「日本シリーズ見たのが先週だったなんて、嘘みたいだなあ」

「泣くとは思わなかった(笑)」

しつこいっての!


ここで、僕は初めてあの時のお礼を言った。

「3年前さあ、出発したときに八王子駅で言ってくれた言葉、覚えてる?」

「うん。」

「ありがとう。本当はね、嬉しかったんだけど、、、」

「だってさ、あの時、本当に不安そうだったんだもん。このまま行かせちゃダメだと思って(笑)でも、ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」

「うん。」

「ずいぶん、浮気してたみたいだけど(笑)」

「それは言わない約束」

「黙ってたけど、ブログはチェックしてたから」

「あ、そうなの?(笑)」

「北国の子、元気だったの?」

「ご懐妊だって」

「あ、そうなんだ。でも、よかったんじゃない?いろいろな意味で」

「ま、これでダナン日本語教師生活、完結だな」

「お疲れ様でした。」

ちなみに、鞄の中に残っていた、ダナンのビール「ラルー」は、彼女へのお土産となった。
もちろん、「シルクの小物入れ」に入れて。


と言うわけで、今日の記事は全て実話です。

これで完結できれば美しいんだけど、もうひとつお伝えしなければならない記事があります。次回の更新で本当の最終回です。
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11月9日(土)夜、ようやく帰国の途へ

さあ、もういいかげん、日本へ帰らなくてはならない。
そして、このブログも終了となる。

11月9日(土)21時。ハノイの日本料理「紀伊」の店先で、店員のヴァンちゃんとの記念撮影を潮時に、料理長のOさん、ヴァンちゃん、タムちゃんたち店員さんに見送られて、悠々とノイバイタクシー(以外の空港構内御用達タクシーを、僕は信じていない)に乗り込もうとした瞬間、、、、、、

あ、あれ?トランクは?

既に到着していたタクシーに積まれていたと言うのは思い込みで(笑)
慌ててヴァンちゃんたちが積んでくれた。

これで置き忘れたら、洒落にならん!

で、あらためてOくんとぼそぼそ話しながら、実はタムちゃんが無料で持たせてくれたミネラルウォーターで乾杯しながら、ノイバイ国際空港へ向かう。

ノイバイでは、やっと調子が出てきたので、チェックインしてからロビーで、恒例となりつつある別れの生ビール、、、、が、時期的に撤収されていたので、ハリダビア。

その間に、台風の動向が気になったので国内線の到着情報をチェックすると、南からの到着便がサイゴン発に限定されており、しかも20分間隔ぐらいで何本も到着している。???

実は、このころダナン国際空港では、台風接近の影響で離発着できず、空港閉鎖状態だったのだ!

しかし、台風そのものは東にずれ始めており、サイゴン便は大きく西側を回り込んで北に向かったのであろう。

ふ〜む、間一髪。ダナン脱出成功。

ということは、昼間に会った日本人カップルを初め、ダナン空港で足止めを食らった人々が大勢いるということだ。

Oくんとは、「次回はハノイかな?東京かな?ダナンかな?」と再会の約束をし、別れる。

国際線出発ロビーは、日本行き、韓国行きなど台風からの脱出をはかる人々でいっぱい。各便満席だとJALの地上職が話していた。


さ、帰りましょう。

機内に入ると、7Kの席はデラックスエコノミーの3列目。サブクラスがもう少し上なら、ビジネスへのアップだったんだろう。

満席。

到着前ではサービスしきれないとの判断か、水平飛行に入るとすぐに、朝食のサービスとなった。おいしくなかったのは、時間の関係か?体調か?それとも、そもそも不味いのか?

わからないけど、たぶん、最後があたりだと思う(笑)

到着時、成田の気温は6度だった。ハノイだったら学校が休校になるなと、とっさに思う浮かんで苦笑。もう、しばらくベトナムに行く必要はない。

トイレで半袖シャツから、日本の晩秋仕様の服装に着替えて出てくると、僕の荷物は既にターンテーブルを回っていた。

最近、帰りは八王子までリムジンバス。意外と早く着くんで、楽です。
出発までミネラルを2本飲む。

だいぶ体内のアルコールが抜けたのか、楽になった。

バックの中には、まだダナンのビール「ラルー」と、ハノイで買って結局手がでなかったタイガーが入っていたけど、バスの中で1本だけ氷結を飲んだ。


ようやく帰宅です。
次回の更新で、本ブログ完結。最終回になります。
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「紀伊の夜」これが最後のはず編(11月9日夜・その3)

昨夜は小田和正の「クリスマスの約束」のネタから、ハノイの日本料理「紀伊」の思い出話に強引に持って行こうとしたんだけど、失敗。さてどうしようかと思っていたところ、、、、

格好のネタがありました。

facebookをやっていると、時々オモシロい企画に出会います。まあ、当然のように何らかの広告に誘導されてしまうのだけど、それは承知の上でやってみる。 

「自分新聞」年末総まとめ号

今年一年間、自分がfacebookでつぶやいた記事の中で、コメントがたくさん付いたり、「いいね!」がたくさん付いたりした記事を、自動集計して新聞仕様にまとめてくれるんですね。去年もやった覚えがあるんだけど、残ってないな。

さて、今年の最多コメント数を集めた記事は、6月にダナンC病院に入院した時の記事「なんてこった!」初体験の点滴もばっちり写真に写っています。

そして、最多「いいね!」の記事は、9月に完全帰国した際にハノイの紀伊で撮った、「松茸&4代目ハノイの妹3人娘」の写真。たしか、成田空港まで帰ってきて、リムジンバスの待ち時間にUPしたもの。

11月にも再会しているので、記憶としてはずいぶん前の話なんだけど、少し、いや、ずいぶんと寂しかった記憶がある。

ちなみに、facebookにupして7時間経過した現在、18件のいいね!と、4件のコメントが残されている。ベトナム語で、「この新聞はベトナム語にできるか?」なんて質問も残されているので、ベトナム語と英語で、「この新聞を書いたのは、私ではない。インターネットで自動的に作例された」と但し書きを入れた。

はい、うまい具合に「紀伊」の話題になりました。


さあ、やっと11月9日(土)に戻ってきた(笑)
12月21日にUPした「ハノイの日本料理「紀伊」の夜(11月9日夜)」の続きである。

トイレでちょっとした事件の処理をして(笑)、カウンターに戻るとタムちゃんが「生ですか?お酒?」
「いや、とりあえず冷たいお茶ちょうだい。チャダー」と頼むと、なんとも怪訝な顔(笑)

まさかねえ、二日酔い+飛行機酔い+車酔いでリバース、、、、なんて、恥ずかしくて言えないし、「帰れ!」って言われそう(笑)

ようやく落ち着いて生ビールを飲み始めたけど、調子が出ない。
お腹がすいた、、、と言うか、お腹の中は空になったので、何か食べたいのだけど手が出ないんですよ(笑)

そうこうするうちに、待ち合わせていたOくんが到着。彼は当然のごとくお腹を空かせて来ているので、「気にせず、好きなもの食べて!」と。それでも、いつも僕が食べているものを、タムちゃんと鳩首協議して決めてくれた。こういう気の使い方ができるのは、二人とも流石ですね。

今夜はヴァンちゃんがレジ係。「昔から長く勤めてお店から信用された子がレジに入っちゃうので、カウンター常連の我々は寂しいんだよね〜」と、歴代の「ハノイの妹列伝」を話していると、料理長のOさん登場。

「ジンナイさん、箸がすすんでないじゃないですか!」に苦笑い。

「そうそう!先日、トゥちゃんに会いましたよ。すっかり貫禄ついちゃって、まだ仕事してるみたい。ジンナイさん、ダナンで日本語教えてたよって言ったら、苦笑いしてましたけど」

ふ〜、、、、3代目ハノイの妹から、ハノイの秘書に昇格し、彼女の自宅に招待されご両親に挨拶。。。
ところが、どこで釦を掛け違えたか、突然の彼女の結婚で「さようなら」となったのが、2010年の春。

そりゃ、苦笑いもするよな。一緒に仕事して、結婚しようかという勢いだったんだから。

「ったく、紀伊の子たちとは2回結婚し損ないましたから(笑)」
「ジンナイさん、最後の詰めが甘いんでしょ(笑)」

うん。あの時は確かに、「寝耳に水」だった。

なんて話しを、Oさんの地元の山梨のお酒をご相伴にあずかりながら、3人+タムちゃん+時々ヴァンちゃんという感じで続ける。

いつもと同じ光景。メンバーが多少入れ替わっても、13年前から繰り返してきたハノイの原風景。
ダナンへはいつになるかわからないけど、ハノイには気軽に来ようと思う。

と言うわけで、毎回恒例のヴァンちゃんとの記念撮影で、今宵の宴は終了。

今回もOくんがお供で、ハノイ・ノイバイ空港まで送ってくれた。


追記:「自分新聞」ですが、どうやらヴァンちゃん、タムちゃんどころか、料理長のOさんまでシェアして拡散。ヴァンちゃんは「この写真はベトナムの最も美しい女の子です」等と書き込んでいる模様(笑)

次回は、遂に最終回。東京へ帰ります。
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「紀伊」の夜(11月9日の夜②)

この記事を、TBS・TVの「クリスマスの約束」を見ながら書いている。
小田和正さんが総合プロデュースで、今回が13回目の番組。テレビに出ない小田さんが、その気になって作っている番組なんだけど、まだリアルタイムで視たことがなかった。

今年の一曲目は「the flag」

この曲、僕が最初にベトナムに赴任した2000年発売の曲。小田さんにしては珍しい、非ラブソング。
小田さんの同世代である団塊の世代に向けた、メッセージソングだ。
僕はもちろん年下だけど、当時自分が置かれていた状況に置き換えて、共感できた詩だ。
もちろん、ハノイにも持って行った。

当時、まだハノイには僕らのような手弁当駐在者が、普通に行けるような店に日本語のカラオケなんかなかった。もし、あったなら、この曲を歌っていただろう。

最初のゲストの吉田拓郎も衝撃だったけどね。

この後、松たか子も出てくるらしいけど、「ほんとの気持ち」歌ってくれないかな?小田和正、作詞作曲。
一番弟子フーンとの思い出の曲。

そんな、思い出の中に、実はハノイの「紀伊」もある。

と言うわけで、ちょっとだけ「紀伊」が出てきたけど、「最終日」の続きは次回(笑)

スミマセン。

あ、そうそう。
斉藤由貴のナレーションも、心が揺さぶられる。

それと、「3年ぶりの一緒のクリスマス」よりも、13年目で初めての「リアルタイムのクリ・約」を選んだ僕を「小田さんに負けたか!」って許してくれた愛しき人にも「スミマセン」否、「ありがとう」

いつまで引っ張る?
まだ、このブログやめたくない(笑)
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ハノイの日本料理「紀伊」の夜(11月9日夜)

紀伊との出会いは、2000年7月まで遡る。当時の僕は学部生の頃から講師をしていた予備校を辞し、ベトナム人看護師養成支援事業(以下、ベト看)の講師として、主に国語、小論文、看護系入試に必要な基本知識(例えば、少子高齢社会とか、女性の社会進出など、ニホンの常識とベトナムの常識が異なるものの解説など)を教えに、ハノイの教育訓練省立経営幹部養成校にあった日本語センターに赴任していた。着任してすぐに、旧知の先任日本語教師に連れて行ってもらったのが最初である。

当時、給料と言うよりも生活費だけの支給で、但し部屋代と光熱費は負担しますよと、そんな待遇で行った、、、、あ、国内積み立てというのがあって、国保や年金はそこから引き落とせていたんだったかな?

要するに、毎日日本料理屋など行けず、基本的には屋台でチャオガーをすすり、濁酒を飲んでいたのだが、生活費が出るとその一部を持って紀伊に行ったものだ。あ、毎週土曜日のチャーカーラボン行きってのもあったけど。

それで、カウンターで新聞を読みながら、カツ丼を食べ、餃子を食べ、タイガービールを1本だけ飲み、、、、、と言う週に一回のお楽しみだったのが、「初代ハノイの妹」となる店員のティンちゃんに声をかけられ、次第に長居するようになり、フエの日本酒「越の一」を一升瓶キープするようになったわけであった。

それ以降、店内では「先生」と呼ばれ、店長のKさん初めティンちゃんたち店員のサービスは格段によくなり、歴代の「ハノイの妹」は写真のヴァンちゃんで4代目である。もっとも4代目は3人セット、いや一人は結婚しちゃったので2人か。

あの、「妹じゃなくて、娘だろ!」ってのは、なしの方向で。僕、独身なんで(笑)

と言うわけで、今宵も楽しく語らうはずだったのだが、開店直後のお店に到着と同時に事件発生。

二日酔いなのか、飛行機に酔ったのか、その両方なのか、、、、
さらに空港からのタクシーでの水がぶ飲みも影響したのか、、、、

いつ以来の症状か記憶にないのだが、カウンターに案内された瞬間、胃の中身が逆流。
辛うじてトイレに駆け込んだという次第。

いやいや、お恥ずかしい。

とりあえず、トイレで体勢を整えてカウンターに戻ると、レジのスペースから「ジンナイせんせい!」とヴァンちゃんの声が聞こえる。カウンターの中にはタムちゃん。「4代目ハノイの妹」コンビである。

席に着いて、とりあえずお茶をいただく。怪訝そうな顔のタムちゃん(笑)で、最近はタイガーじゃなくてサッポロの生。

う〜ん、調子が出ない(笑)

ベトナム最終日を何回に分けてるんだ?
いつまで引っ張るの?と仰らずに、もうしばらくお付き合いください。
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