合掌

すぐにやらねばならない仕事が山積しているのだが、ちょっと自分なりに整理したい思いがあり、書いてみることにした。

過日、mixiのマイミクさんの日記で、サイゴン在住の日本人男性が客死されたことを知った。
直接は存じ上げないのだが、お名前を拝見して、以前からベトナム系の掲示板等で「歯に衣着せぬ」と言ってはことばが悪いが、「機知に富んだ」独特の文体で投稿されていた方だとわかった。僕がベトナムと関わり出した時期と、ネットで情報収集を始めた時期がほぼ同時期で、そのころにはもうお名前を拝見していたから、10年以上前になるだろう。ベトナムに関わっている人なら、ご存じの方も多いと思う。

その方のことや、亡くなった経緯などは直接に存じ上げないので記さないが、ちょっとショックだった。

恐らく、日本にいたら「ああ、亡くなったんだ…」で終わってしまったと思う。
でも、ベトナムに暮らしていると、他人事ではないなと思うのだ。

おかげさまで、8月末にベトナムに入ってから、未だ一度も薬のお世話にも、もちろん病院のお世話にもならず、航空券の倍近い値の1年有効海外旅行保険は宝の持ち腐れのまま。混沌とした交通事情の中でも、ひやっとした経験すらないのは、幸運なのだろう。
不思議と、深酒することもなく、酔っぱらった状態にもなっていないのは、やはりどこかに緊張感を保っている証拠なのだろうか。

しかし、人には避けては通れぬ、思わぬ事故というものがある。ある日突然に、と言うことは世の常なのだろうか。

ダナンに来て、交通事故を2度目撃した。140日経過してたったの2度ということが、ダナンだなぁとも思うのだが、やはり幸運なのだと思う。
もうトラウマになってしまっているのだけど、ベトナムで事故を目撃すると、ある教え子のことを思い出す。

10年前のハノイで、ベト看(ベトナム人看護師養成支援事業)の5期生を教えていた。学生の中に、小柄ですこしぽっちゃりしたLさんという可愛らしい学生がいた。彼女は、残念ながら日本に留学することができず、ハノイに残って就職したと聞いている。実は、その後彼女がハノイでどのように暮らしていたのかは知らない。しかも過去形の話になってしまった。そう、ハノイの教室での別れが、永遠の別れになってしまったのだ。

数年後、ハノイに残った学生たちが集まって、同窓会のようなことになった。その時、みんなの近況報告を聞きながら、今日来ていない学生の話になり、彼女の交通事故死を聞かされたのだった。
バイクを運転中、道を渡る子供を避けようとしてバランスを崩し、対向車と正面衝突したのだそうだ。
一部の学生は「彼女は馬鹿です。そのまま子供にぶつかっていれば、彼女は死ぬことはありませんでした」と言っていた。
その話を聞いたとき、僕はあらためてベトナム人の表裏、内と外の思いの差を痛感し、愕然としたものだった。

確かに、そうかもしれない。
そうかもしれないが、それはおかしいことだ。おかしいことだけど、では、なぜ、なにがおかしいのか。
僕には、彼女たちを諭すことばが見つからなかった。

この思いは、10年経とうとしている今でも、かわらない。

なぜならば、ベトナムでは交通事故に限らず不慮の事故は日常茶飯事だし、その咄嗟の判断で死に至るか、何事もなかったかのように走り去ることができるかの違いが、出てしまうのである。また、救急医療の充実は、まだまだこれからであり、充分な設備を整えた病院があるわけでもなし。
ある意味、生き死には運次第と言えるのかもしれない。

「そのまま突っ込めばよかった」

それは、彼女たちの生きる術なのかも知れず、僕にはその術を否定することばを、未だ見つけることができずにいる。


幸か不幸か、僕は事故にあったことがない。
日本でも、入院加療が必要な病気や怪我とも無縁である。最後に医者に行ったのが、いつのことだかも覚えていない。
しかし、それは幸運の積み重ねなのであって、ある日突然にが今日やってくるやも知れないことを、忘れてはいけないのだと思う。

実際、もし僕が何らかの事情で教壇に立てなくなったら、学生たちが迷惑するばかりでなく、大きな動きに影響を与えてしまう。
老いた父を日本に残して死ぬわけにはいかないが、もしもを避ける最善の努力はしても、「絶対に大丈夫」はあり得ない。

日々を如何に生きるか。心静かに、思い、悩む時間を与えてくれた、訃報であった。


ベトナムに熱い思いを残して逝ったであろう故人の、冥福を祈りつつ。

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